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日中 ゆとりある発想 今こそ
竹内実さんを悼む
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(原載:『京都新聞』2013年(平成25年)8月5日(月)朝刊)
吉田 富夫
 竹内さんーー亡くなられた人のことをぼくはそう呼んでいた。

 1973年、東京から京都大学人文科学研究所に助教授として赴任された竹内実さんが現代中国研究班を主宰されると、ぼくはすぐそのメンバーになった。それからおよそ40年にわたって直接教えを受けた。

 竹内さんとの研究会は楽しかった。座談の名手だった竹内さんが、独特の柔らかな声で何か一言われると、その場のみんながそうだと決めつけていた中国をめぐる事柄の、まったく別の側面が鮮やかに浮かび上がり、<常識>の皮がぺろりとめくれるーーそんな場面に何度出くわしたことだろう。まったく、絶妙のセンスと間だった。

 竹内さんが身をもって示されたのは、中国のことは、文献にせよ、土地にせよ、事件にせよ、可能な限りおのれの躰(からだ)で触れて、先入観を捨て、おのれの頭で考えよということだった。平凡だが、貫くことは容易ではない。ご自身も中国歴史をめぐる一文をものするために、たとえば諸葛孔明ゆかりの五丈原の大地に、その晩年、二度も発ってみられる、というふうであった。

 そうした姿勢が、中国当局発行の官製「毛沢東選集」の虚飾に飽き足らず、毛沢東著作の原典を初出の雑誌や新聞に探索してまとめ上げた若き日のお仕事「毛沢東集」20巻から一貫する、竹内さんの姿勢だった。

 その別の側面として、自由な中国観をも尊重された。100人の人がいれば、100の中国観があってよいと、これはそういうことばで書いてもおられる。若い人の中国研究から、当人も明確には気づいていない意味を引き出すことに巧みでもあった。この点では、竹内さんにとってははるかな先輩にあたる吉川幸次郎博士とも共通するものがあった。

 思うに、竹内さんのこころを終生とらえて放さなかったのは、毛沢東と魯迅という二人の巨人であった。その二人を中核に据え、20世紀中国を総体として研究の対象とする文字通り前人未到の道を切り拓(ひら)いてこられたが、その一歩一歩は<常識>とのあらがいだった。ゆえに、その著作のすみずみには、中国理解を深めるヒントとなる苦汁の智慧(ちえ)がちりばめられている。

 「友好は易く理解は難し」はご著書の題名でもあるが、竹内さんのそうした智慧の一つでもある。過去の歴史への理解の努力を欠いたまま、空疎な<友好>の二字ばかりが踊る一時期の日中関係に苛(いら)だった竹内さんは、日清修好条規(1871年)以降の120年におよぶ日中関係の国交に関する基本文献をあつめた「日中国交基本文献集」(上下)のような、報われることの少ない地味な仕事もされている。

 嘆いても亡き人は帰らないが、せめてこの際、一人でも多くの人に、こうした竹内さんの著作を手にとってもらい、その志のバトンをつないで欲しい。
(佛教大学名誉教授)

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 竹内実さんは、7月30日死去、90歳。



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