現代中国研究会のこれまで     

竹内実      


目次
1.はじまり
2.研究報告
3.研究会の継続

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1.はじまり

 1975年(昭和50年)4月、京都大学人文科学研究所に「現代中国」部門が新設され、現代中国についての研究班が発足した。研究所は共同研究をたてまえとし(個人研究もおこなうが)、二年、三年かけて一つの課題を追求、研究報告を刊行する。
 共同研究会は「班」と称し、班長は教授とされている。また、研究所は、講座制をとらず、部門制である。
 竹内実が73年5月に助教授として就職、75年に教授に任ぜられたので、新しい部門が成立したのである。それまで「現代中国」は研究所としてはこの研究分野をうたったことはなかった。
 研究会には京都・大阪・神戸の各大学の教授、助教授、助手、大学院生が自発的に参加した。当時、共同研究班の数が多く、会議室が一つしかないため、夜間に研究会をひらくよりほかはなかった。
 助教授であった竹内は最初の二年間は島田虔次、田中謙二、福永光司教授の研究会に出席した。二年目に科学史担当の山田慶兒助教授が二人で共同研究をしようと発議、月一、二回討論をかさねた。
 これよりさき竹内は東京都立大学を辞職、三年間経過していた。
 当時の中国は文化大革命の最中であった。日中国交の正常化が1972年にあったが、学術交流には制約があり、幅は広くなかった。
 研究会は参加者各自の自発的な課題の報告や中国の社会、政治、文学各分野・中国刊行の雑誌の分担をきめて、内容や動向のまとめを報告することをおこなった。「傷痕文学」など中国の文学界もしだいに復活しつつあった。「四人組」逮捕の報道がたまたま、夕刻の研究会開始直前に流れ(夕刊に掲載された)、研究会終了後、一同で痛飲した。  京都大学や、学術振興会の援助で外国人客員教授を招聘したこともあった。ロンドン大学の毛沢東研究家スチュアート・シュラム、ソ連極東研究所のグリゴリエフ、カナダ・トロント大学のジェローム・チェン(陳志譲)、北京大学の厳紹●、北京の中国社会科学院文学研究所の程麻などの諸教授である。
 研究会はシュラム教授の来日を機に、公開研究会もおこなうこととし、市民の来聴を歓迎した。こうした共同研究班は竹内が定年退官する1987年(昭和62年)3月まで、十二年間つづいた。
                                

※印は他大学招聘。



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2.研究報告

◆人文科学研究所 研究報告
 研究報告としては、つぎのとおり刊行した。
  『毛沢東著作年表』京都大学人文科学研究所、1981年(昭和56年)3月
  『転換期の中国』京都大学人文科学研究所、1987年(昭和62年)3月
  『中国近現代論争年表(一八九五〜一九八九』同朋舎出版、1992年11月
◆研究所研究報告とは銘うたないが、共同研究の成果といえるものはつぎのとおり。
  『中国現代史プリズム』蒼蒼社、1988年12月
  『中国を読むキーワード』蒼蒼社、1990年(平成2年)5月
  『中国文学最新事情』萩野脩二・竹内実編著、サイマル出版会、1987年2月
◆翻訳
 (下記以外にもあるかとおもうが資料不備のため詳細については記すことができない。)
  註釈『毛沢東選集第五巻』三一書房
  『●小平を読む』風媒舎
  『人間周恩来』サイマル出版会
◆研究会では調査と親睦を兼ねて、国内外旅行をおこなった。(年次は記録不備のため省略)
  @トヨタ自動車豊田工場
  A新日鉄大分製鉄所
  B台北・政治大学国際関係中心
  C北京・党中央文献研究室・党史研究室・軍事科学院訪問
  D湖南省詔山・毛沢東生家訪問


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3.研究会の継続

 1987年(昭和62年)3月、竹内が京都大学を定年退官、立命館大学に就職、翌年国際関係学部が新設されるにともない研究会の場所も立命館大学の施設や京大会館に移った。また公開研究会も佛教大学四条センター、京大会館などで開催した。
 これは1994年(平成6年)3月、立命館大学を定年退職するまで、七年間継続した。94年は竹内の「古稀」の年でもあったので、研究会主催で研究報告をかね公開研究会と祝賀親睦会をひらいた。以後「代表」に吉田富夫佛教大学教授が選ばれ、事務局も佛教大学の吉田富夫研究室に置かれ、こんにちに至っている。

(2000年(平成12年)7月14日記す)

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